そのひと言で済まないということ
それはともかく、そこで三名の方とコメントのやり取りをさせていただく中で、ふと気付いたことがあった。現状の私は、単行本原作の小説の文庫化されている部分だけを読み、直近の話でアニメオリジナル要素に否定的な立場にある。それをどうやらコメントする方は中庸ないし、肯定派にしたいようなのである。
しかし。
それならどうして誰も、決定的なひと言を書かないのだろうか、と。いや、書かないというよりも本当にそのアニメを、その原作を信じているならそのひと言で済むのに、アレコレと余計なことを言うのだろうか、と。
「最後まで観れば納得してもらえると思うので、頑張って視聴して下さい」
「原作のこのエピソードを読めば分かってもらえると思うので、文庫版が出版されたら読んでみて下さい」
これで事足りるのではないか。このシンプル過ぎる一文だけのコメントなら私は、「分かりました。最後まで観て判断します」「文庫版が出たら読んでみます」としか返しようがないし、そう理解するしかないのだ。だって、それ以上の反論要素はその一文にはないし、そもそも賛否の判断は自分でするのであって他人が他人に強要するものでもない。
そう感じたから、そう記事を書いた。
ただそれだけだ。これが、完結しているアニメなら細かい議論も成り立つのだろう――なにせ、アニメの部分において持っている情報は互いに同じなのだから、同じ土俵で議論するのだ。
でも未完のアニメで、同じことが言えるかといえばそうとは言い切れない。この先、完結するまでの間にアニメがどういう展開をするのかも、どういうクオリティになるのかも分からないし、なにより未完だと原作を全部知っている人、途中まで知っている人、まったく知らない人で立場も見方も違う。
アニメの原作をまったく知らない人が、原作を全部知っている人に「いや、アニメオリジナルのここはとても良かったはずです」と語るならともかく、原作を全部知っている人が原作を途中しか知らない人、まったく知らない人に原作の知識や情報を持ち込まれても「はぁ」としか言えない。観れば分かることなら「いや、じゃあ観終わるまで待ってよ」としか言えない。
原作が好きで、アニメ化されている現状も肯定的で、この先も期待しているなら、余計な理屈も言い回しも不要なはずだ。ただ「信じて最後まで観て下さい」で済む。
そのひと言で済むのだ――本当に、原作やアニメを信じているなら。
三名の方から連投含めてたくさんコメントをいただいた。コメントをするのも熱量がいることだ。その熱量を、こんなBlogに向けて下さったことには驚きと感謝がある。
けれど、どれもこれもいろいろと説明してくれているようでいて、実際は本音が靄に隠れて見えづらくしているような気がしたのだ。
この三名の方はアニメオリジナルに肯定的な意見を残されているけれど、シンプルに「最後まで観れば分かる」「原作読めば納得出来る」と言う人はいない(まぁ、その言葉を使った人はいるけれど、そのあとにお茶を濁すように複雑な解説を続けていた)。それって――シンプルなひと言で済ませられなかったということは、実はこの御三方も心のどこかで、今のアニメオリジナルの流れに不安や疑問を感じているのではないか、それを誤魔化しているだけではないかと思うのだ。
まぁ、あくまでこれは私の推察である。ただ、皮肉なことに正直連投も多かったこの記事のコメントに「勘弁してくれ」と思うこともあったが、今の段階では客観的に視えている自負も出来た。
シンプルに言えないことの裏側には何かあるのかもしれない。
もちろん、あるかもしれないし、ないかもしれない。ただ私自身長文の記事を書くことが大半なので、そういう時にもっとシンプルな言葉の方が、読んでいる方に伝わるのかもしれない――少なくとも、見出しや出だしはシンプルに言い切ってから解説するという話術・文章術みたいなものの必要性を、一連の出来事から学ぶことが出来たのは収穫だと思えた。
では、最後に学んだ通り、シンプルに「どうしてこんな記事を書いて公表したのか」を書いておこう。
それは、「連投、長文コメントへの牽制」である。
シンプルなコメントの方が説得力あることも多々あります。それをどうか少しでもいいから知ってください。
>無題さん