鬼灯の冷徹 第8話
『「えげつなき戦い」「地獄三十六景」』
≪あらすじ≫
「えげつなき戦い」
ゴシップ雑誌『週刊三途之川』。
記者の小判が湯のみ片手に、最近のスクープを思い返して静かに一人ごちていた。
白澤とピーチ・マキの密会、不喜処の涙の出産ドキュメント。
そこまではよかったが、中途半端に閻魔殿に首を突っ込もうとして、
鬼灯の計らい?で激写してしまった奪衣婆の水浴びの瞬間を思い出し、胃を押さえる。
ゴシップ一本、よりえげつなくいくと決意した小判がターゲットにした人物とは?
「地獄三十六景」
たまの休日。ノミと槌を手にした茄子が、今にも動き出しそうな蛙を木の枝に彫っていた。
しかし、どこか納得いかない様子。
最近どうもビビッとこないと、唐瓜に打ち明けてみた茄子は、
いつも通りにしてりゃいいと言われて、何となく合点がいった様子。
少しして、気持ちよさそうに風に吹かれる金魚草を見た茄子、
唐瓜の言葉にしたがうように、金魚草とともに風に身をまかせてみると?
(公式HP ストーリー 第8話より抜粋)
≪感想≫
◆天才の感性は凡人には分からないのか
Bパートの天才肌・芸術肌の話題から派生して今回のテーマはこれ。結論からいえばそれはNOだと、私は思っている。というか、そうじゃないと成り立たないと思うんだよね。
例えば、絵画。独自の感性があって有名なのはピカソか(私たちが良く知るのはあの奇抜な人物絵だけど、まともな絵の方が多いとかたくさんあるとか)。彼の感性が独特で凡人に分からないかと言えば、そうなのかなと思う。確かに奇抜な感性は持っていたのかもしれない。
けれど、その感性を凡人が理解し評価出来なければ、今のこの地位もなかったのではないか。
人は自分だけの申請で全てが評価されるわけではない。人は他人を通して、その他人によって評価されるものでもある。もしかしたら、人の多くは他人を通して自分自身を知り、自分自身を再評価する人の方が多いのかもしれない。就職活動をしたことがある人は経験があると思うが、エントリーシートでの自己分析。あるいは、面接。
その時、私たちが人事の面接担当者から何を言われるかというと、良くある質問の一つに「あなたは周囲の人間からどんな人間だと言われますか」という問いだ。この問いと、その返答に対して担当者が何を観ているのか、というのはまたいろいろ違うのだろうが、総じて言えるのは「周りの人の評価はどうですか。それをどれくらい自覚していますか」ということだ。
つまり、こんなところにも私たちは「自分」というものが、自分自身ではなく他人の評価の方が優先されているわけだ。
話を戻すが、なら天才の感性が凡人に理解されないのであれば、「天才」なんて存在はこの世の表舞台に立つことが出来るのだろうか、ということだ。
他人を通して人間が評価されるものなら、評価される側にそもそも「評価」というものをされなければ、それがどんな功績だったとしても意味はない。
つまるところ、良く「天才のことは凡人には分からない」というがそれは間違いなのだ。それは天才の感性を凡人が理解出来ないのではなく、その凡人が世間一般の標準的な感性評価をするだけの力量がないだけ。
そういう意味で、もしかしたら、周囲の人から「変人」扱いされ、何も評価されないままこの世を去る人こそが、真の天才なのかもしれない。
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