京騒戯画 第10話
『どうしたらいいかみんなで考えよう』
≪あらすじ≫
《第28章》
稲荷は、古都に自分が存在する意味を問い、自分は消えるからお前は生きろと告げる。
《第29章》
明恵とコトは数珠を使い鏡都の復活を果たそうとするが、二人は天に飛ばされ、「神様」と出会い、新たな鏡都の主になれと言われ る。
《第30章》
父・稲荷の真意を確かめ、答えを出すため、コトは聖域で稲荷と対峙する…!
(公式HP ストーリーより抜粋)
≪感想≫
大 団 円
という言葉が良く合う終わり方だった。結局最後まで「家族愛」って言う部分がブレなかったのが、作画でハチャメチャやっている割に軸がしっかりしていたのが好印象だった。聞いているコッチが恥ずかしくなりそうなほどの、コトの啖呵や明恵への「生きてよ、私のワガママだけど」って言う言葉一つ一つがとても良かった。
キャラクターの「成長」とはまたちょっと違うんだよね。まぁ、一般的にはこうしたところを「成長」と評価するのかもしれないけど、私の中で明恵だったり、稲荷(先生)だったり、コトだったりの変化っていうのは「成長」じゃなくて「本質」なんだ。
どこまでいけば「成長し切った」と言えるかはもちろんわからない。もしかしたら、人間は死ぬその瞬間まで成長をし続けるのかもしれない。
ただ、私の中でやっぱりある程度の年齢なり、経験なりで「成長」というのは終了するんだと思っている。「ヒト」という自分の器の中にアレやコレやと詰め込んで行って、いっぱいになったところで成長は終わり。その「いっぱいになる」タイミングって私は結構早いと思うんだよね。
もっと簡単にいえば人格の形成が完了した時には成長が終わる時かも、とも思っている。人格がある程度固まって、そこから変わるのは実は「成長」じゃなくて、「本質」の顕現なのかな、と。
だから、明恵も、稲荷も、そしてコトも成長したっていうより本質が現れたって感じ。
その証拠に彼らの基礎・根底と言う部分はあんまり変わってないようにも想う。ただ、それぞれの根底の上澄みの濁った部分を掬って捨てたら底の方まで良く見えるようになったって形かな。みんながみんな、「家族」を欲してた。さり気なく鞍馬や矢瀬が稲荷に詰め寄っているシーンが如実に物語っていたと思う。
だから、これからもあの家族は時に些細なことで世界を巻き込む規模の喧嘩もするし、かと思えばどこの街角の一軒家みたいにこじんまりとしたところで笑い合うのだろう。
それで良いと思わせる最終回だから、私は良かったと思う。
なにより最高だったのは「いるだけじゃ、あかんのか?」というセリフだろう。もちろん、いざ一緒に生活するともなれば言葉通り「いるだけ」じゃダメなんだけどさ。家族のルールや協力を惜しんではいけないんだけど、そういう意味とは違って近くに居てくれるだけで良い、というのがとても良く伝わってきたんだと思う。
あとは明恵が「父さん」「母さん」というところは、なんか知らないけどジーンときた。今まで鞍馬や矢瀬みたいになかなか口にして来なかったからだと思うんだけど。
さて、次回は総集編だがどうなるか。
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NoTitle
宮司や稲荷を含めた最初の三神はそのまま造化三神の性質を備えていて、天之御中主神は世界を創った後は姿を隠して何もしない神なんですよね。
まさにいるだけ、でも一番偉い(笑)
脳死状態の家族をいつまでも延命治療続けるのは互いに酷なだけなのに、と思う人は多いし自分もそうですが、実際にそれをやってる人に聞けば「いてくれるだけでいいんだ」という答えが返ってくるものだそうです。
それが正しいかどうかは分かりませんが、家族の本質とはそういうものなのでしょうね。