雑記6/17(C#10感想とか)
- ジャンル:[アニメ・コミック]
- テーマ:[日記とアニメ・マンガ関連ごちゃまぜ]
そういえば、秋からの新作ガンダムが発表されてるんですよね。『AGE』でしたっけ。PVは観たのですが、効果音が急造だからか、本編でもそうなのかSEEDからの流用だった時点でもうすでに気持ちは萎え始めている(苦笑
路線はこれまでのガンダムシリーズとは異なり、敵は宇宙生命体? 何だか、ガンダムというよりも勇者ロボットシリーズっぽさを強く感じますw 加えてこれまでのガンダムシリーズは、サブ的な立ち位置だった他分野への進出が、今回は逆にメインのような感じ。すでにゲーム化や、ガンプラを使ったゲイジングバトルとやらに使うそう(これはガンプラビルダーズ、あるいは昔ボンボンで連載されていたガンプラを使ったCGバトルに近い感じか?)。
もうすでにTV放映はメインじゃないんですよね。むしろそうしたホビーの販売促進をするためのおまけ的なイメージがします。もちろん、放映されて視聴してみないと何とも言えない部分もあるんですが。
まぁ、『UC』で大人向けの作品を制作中でもあるので、TV放映が若年層向けになるのは致し方ないのだけど、これが吉と出るか凶と出るか……。
追記はC#10の感想をたまには書いてみます(感想というよりは、C全体に関する考えかもしれませんが)
C #10『collision(衝突)』
◆やっぱり『C』が面白い
世間一般では同じ時期のノイタミナ枠では『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(通称“あの花”)』の方が人気なんだろうなって認識しているが、個人的には土壇場で『C』の方が面白くなってきた。
こう言うとアレだが、個人的に元々『あの花』は作品としては丁寧な心理描写で秀逸なアニメだと認めている反面、主観としてはあまり面白いとは思っていなかった。これはたぶん、私自身が(某チャンネルのメガネキャラのように)あまり『青春』や『熱血』といったモノを得意としていないせいだろう。作品としては良い出来のものだと思っているのは間違いないし。
それに対して『C』は熱い展開ではあるのだけど、こう論理の戦い合わせというか互いの主義・主張のぶつかり合いが明確になっている点で、『あの花』より面白く感じている。
今回、ラストで明確に三國にNOを叩きつけディールをすることになった公麿。当初は似た者同士のように描かれながら、公麿がディールや金融街を通して様々な人と出逢い、話をし、影響されることによって少しずつ二人は対立し、同時に未熟さが見え隠れしていた公麿は三國と対立することも厭わないほど成長した。
そうした中で、本作で描かれているのは『現在(いま)』と『未来』である。これを私たちが明確に解りやすい形として紙幣(経済)に換金することが出来る世界観という工夫によって描かれている作品である。これらは1話から一貫していて変わっていない点で凄いと思っている。
もっとハッキリと言ってしまえば『現在の積み重ねが未来』という主義と『未来の結果が現在』という主義のぶつかり合い。言うまでもなく前者が三國、後者が公麿の主義主張である。
これらはどちらも矛盾している。
『現在の積み重ねの先に未来がある』とする三國だが、その三國は未来を食い潰して現在を保とうとしている。では、積み重ねたとしてその先には本当に未来はちゃんと残っているのか? という点で矛盾する(なぜなら、未来は現在を保つために食い潰されているのだから、残っているのかどうか怪しい)。
『未来の結果が現在(未来あってこそ現在にも価値がある)』とする公麿だが、未来へ希望を残し投資することは大切だが、それでも現在に自分たちは生きているわけである。その現在に生きる自分たちが崩落してしまったら、その先に未来があるのか?という点で矛盾する(時間の流れを一本の線にした時、『現在』と『未来』の間で線が途切れてしまったら、そもそも『未来』にはたどり着けないのではないか)。
これに対して安易にどちらが正しい・間違っている、ということは言えない。どちらも正しいと思うし、かといってどちらにも問題はあるとも思う。そもそも私たちが生きる中で、完全無欠の解答なんてある方が稀なのだ。正解だと信じた解答でもどこかに不備があるものだし、間違いだと思う解答でもその中に少しは真実や正しいと思える部分だってあるものだ。
◆今の日本という国に当てはまる作品性
ただ、この構図は今の日本に当てはまる。むしろ、監督やスタッフはその点を意識し、メッセージ化してこの作品を作っているような気がする。
今の日本は三國の考え方によって行動している。
『現在』を積み重ねるために、私たちが選んだ政治家たちは『未来』の子供・孫、あるいはその先の子孫に対して何ら返済計画のないまま多額の借金を押し付けて『現在』を生き延びている。
だが、本当にこのままでいいのだろうか?
もしかしたら私たちが未来を食い潰したせいで、私たちの子孫は仕事もなく、お金も食べるものも困り果てた貧困の中での生活を強要されるかもしれないのだ。私たちは未来の子孫に希望を残せず、ただ絶望を押し付けることしかしていない。
今、この国に未来の子孫や国民たちのために何か一つでも残そうとしているものがあるのだろうか? 自然環境の保全なんかはともかくとして、今のこの国に五年後・十年後なんていう直近ではなく、三十年・五十年あるいは百年先まで見据え次世代により良い形でバトンタッチをするような仕組みや政策が組まれているだろうか?
おそらく無いわけでは無いはずなのである。だが、それがマスコミによって全く取り上げられないし、国会でも政治家たちはライバルや、下手をすれば身内の足を引っ張ることばかりで、それがまったく国民の目に入らないし、注目が集まらない。
現在を保つために未来を食い潰すことがどういうことなのか。それを明確に示しているのがこの作品であり、その危険性を訴えて警鐘を鳴らしている気がする。
なら公麿のように未来のためを考えて今の私たちが犠牲になれば良いのかとなれば、それもまた違うのだろう。現在を生きるのは子孫ではなく私たちなのだから。
こう言うところで、この作品は安易に何が正しいとか間違っているとか言えない要素が多分に含まれていて、その分だけ自分の頭でいろいろと考えを巡らせるから面白いのかもしれない。
とはいえ、これも一つの作品。監督やスタッフなりの解答がおそらく来週に出されると思うので、それをまずはどんな解答を出してくれるのか、楽しみにしたいなと思う。
お久しぶりです
いやぁ何を考えてOK出したのだろうか、わけ分かりません。エクシアを初めて見た時は微妙だったけど慣れると味わいが有りましたが、今回はそんな事になりそうな気が欠片も起きないです、ダセェwww