劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer- 感想・講評 第九回
- ジャンル:[アニメ・コミック]
- テーマ:[機動戦士ガンダムOO]
感想・講評 第九回『キャラクター考察3』
キャラクターを個別に振り返って行こうと思います。一応総数が多いので数回に分けることになると思います。
今回は地球連邦軍を取り上げます。と言っても数が多いので二回に分けますが。
しかし、更新ペースを上げないとMS考察する前にMS設定出てきちゃいそうだ(笑
※ちなみに小説版は読んでません。もし小説版に似たような記述があっても複製ではなく、また小説版と違った解釈であったとしても個人的な解釈ですので、それを了承して頂けますようお願い致します。
では、さっそく考察です。
◇デカルト・シャーマン
純粋種のイノベイター。
その存在は、かつてのニュータイプやSEEDと同じでソレだけではどうにもこうにも、発信されたモノを受けるしかない自分たち視聴者には解りづらい部分がある。それもそのはずで、だってイノベイターとしての存在として具現化しているのは、TVシリーズでは刹那だけだったのだ。
例えば1stのニュータイプでも、当初はアムロ・レイだけだった。あるいはSEEDのSEED因子(ややこしいw)を持つのも、当初はキラ・ヤマトだけだった。
でも、それだけではその存在が良く解らない。だって、ニュータイプを論じようにもその具現がアムロしかいない、SEEDを論じようにもその力を持つ者がキラしかいなければ、どこからどこまでが特殊な力であり、どこからどこまでが個人としての性質なのかの見分けが難しいからだ。
そう言う意味で、どの作品にもその力の対比となる人物(基本はライバルキャラ)が出て来る。1stのララァ・スン、あるいはシャア・アズナブル、SEEDのアスラン・ザラ、シン・アスカがそうなるだろう。
そうした、『同じ力を持つ違うキャラクター』を通して、それぞれニュータイプとは何か、SEEDとは何かを図り知ることが出来る糸口の一つとなるのだろう。
思えば、TV版で純粋種のイノベイターは刹那だけで、自称イノベイドを超えたイノベイドでイノベイターを名乗るリボンズが出て来るだけ。
宇宙世紀で言えば、ニュータイプと強化人間のような差があるので、そこでその存在の真意に迫るのは難しい。
そうした、過程を経て生まれ出たキャラクターが、純粋種のイノベイターであるデカルト・シャーマンだったのだろう、と思う。
劇場版では中盤には早々に退場してしまったキャラクターだが、良い意味で刹那との対比で描かれたキャラクターであった。
対話を望む刹那と、対話を拒むように撥ね退けるデカルト。
つまり、それが『イノベイター』と言う存在の答えなのだろう。
刹那が対話を望むのは、1st・2ndシーズンを経て、あるいはダブルオーライザーによるトランザムバーストと言うツールを持つが故、だ。もし、仮に刹那に1st・2ndシーズンの長い経験を経なければ、あるいはダブルオーライザーによるトランザムバーストと言う機能が無かったとしたら、彼は人間同士だけでなく、ELSに対しても対話を望めただろうか?
デカルトと言うキャラクターは、そんな刹那のIFの存在のような気がする。デカルトには変な話、1st・2ndシーズンの経験がない(デカルトは2ndシーズンで軍に志願している設定)、あるいはトランザムバーストと言う意識共有領域を作れるツールを有していない。
ただ、人よりも脳量子波によって他者の、あるいは他種族とのコンタクトの可能性を秘めているだけだ。
そうした時に、理解出来ない信号を送るELSにそれを受け入れろ、と言うことがそもそも無理な話であって、当然の応戦をしたわけだ。
デカルトが対話に肯定的でなかったのには、自身の処遇もあるのだろう。イノベイターとしてモルモット同然に扱われる日々は、平和的な要素を色濃く持つ“対話”とは真逆の日々である。そうした意味では、デカルトによる対話の失敗は、そもそもの地球連邦軍による方針の失敗に等しい。
(それを失敗と捉えているからか、後の連邦政府及び軍の対応はイノベイターに対して人道的だったのだろう。そうでなければ、50年後のあの姿は無かった)
イノベイターとは、あくまで対話の為の“下地”に過ぎない。
人と人とが、あるいは他の種族と解り合う為には、解り合える為の努力を当人たちがしないといけないのだ。イノベイターだから対話が出来るのではなく、イノベイターとしての下地を持つ者が対話を有利に進めやすい、と言うだけだ。
対話をする為に(しかも人と、ではなく、外宇宙にいる知的生命体と)必要な脳量子波、寿命、判断力などを下地としてどんなに持っていたとしても、対話の意思が無ければ対話は成り立たない。
その“意思”こそが、イオリアの言う「知性を正しく使うこと」であり、イオリアがCBと言う組織の行動理念に「(武力による)戦争根絶」と言う、矛盾を孕みながらも強い平和に対する“意思”を持たせたことも、こうしたところに起因しているのだろう。
◇グラハム・エーカー
フラッグに似たブレイズによって構成されるソルブレイブス隊の隊長に就任したグラハム。その姿には、1stシーズンを色濃く残しながらも、2ndシーズンによって得た力強い精神が入り混じった、より崇高な存在と感じる。
刹那しかり、ロックオンしかり、あるいはティエリアしかり。
シリーズを通して出演している(ロックオンは別人ではあるが)キャラクターたちは、それぞれ2ndシーズンを経て、劇場版では1stシーズンのカラーを改めて強く感じるわけだが、そうした意味ではグラハムもまたそうしたキャラクターの一人と言えるだろう。
刹那とガンダムの危機に颯爽と登場したグラハム。二年ぶりの対面を果たした刹那への想いを語るグラハム。刹那の為に、人類の為に、自らを未来への水先案内役を請け負ったグラハム。
思えば、グラハムは刹那とガンダムによってその人生を大きく歪まされた。歪んだ結果、グラハムは2ndシーズンでさらに歪み続けたが、歪ませた刹那とガンダムによってその道を再び正された。
刹那とガンダム。
その二つの存在に、確かにグラハムは心奪われた存在だったのだろう。
でも、きっと最後には心奪われた刹那とガンダムを追い越し、刹那とガンダムに自身の存在に心奪わせたに違いない。
ELSへの攻撃を躊躇う刹那への檄。
「生きて未来を斬り拓けと言ったのはキミだろう!」
一度は会得し、グラハムにも伝えた筈の刹那の“答え”。その“答え”に迷った時に、グラハムはその答えを今度は逆に指示したのだ。
その身も心も、きっとどこまでも刹那とガンダムに近づこうとして、そしてついに追いついた。そんなキャラクターだったのかもしれない。
◇アンドレイ・スミルノフ
不覚にも何度見ても(挿入歌の良さもあって)涙腺が緩んでしまうのが、アンドレイの自爆シーンだ。
2ndシーズンから登場したキャラクターであったが、実父であるセルゲイを撃墜したことでただでさえ高くなかった株価を一気に落として行った。ラストのトランザムバースト空間において、マリーを通じてセルゲイの想いを知ることで、和解してしまったことに対しても、視聴者としてやりきれなさを覚えた人も多いかもしれない。
良くも悪くも変わったようで変わって無いキャラクターが、アンドレイだと思っている。
相変わらず、軍人としての在り方に強い誇りと理念を持つキャラクターだ。それこそ、グラハム以上に軍人としては在るべき理想形を負い続けるタイプの軍人である。
そこは2ndシーズンと変わらないのだ。
ただ、そこに劇場版では父の想いが加わっている。2ndシーズンで否定し続けた父の存在と想い。強さと優しさを兼ね備えたセルゲイの力と、母のような二の舞は出さないと言う決意が、改めてアンドレイに秘められていた。
それが、あの自爆なのだろう。
他の誰の為でも無い、市民の為の自爆。
それを偽善と言うだろうか? それでも良いではないか。アレルヤではないが、それでも彼の行動は善だ。たった一基のELSを自爆で破壊しても焼け石に水かもしれないが、それでも彼はその命が尽きる最後の最後まで、理想を追い求め理想に少しでも近づこうとした軍人だったのだ。
その生きざまは、両親にそっくりであり、彼の最期には微笑む両親が見えたのは、ようやく彼が命を賭して両親に近づいた証だったのだろう。
◇カティ・マネキン
スメラギとは異なり、戦術予報士としては奇を衒わない、堅実な策を行ってきたカティ。劇場版でもELSとの戦いの指揮を執ったが、スメラギ同様情報の少な過ぎる未知の存在であるELSとの戦いは、先制攻撃と力押し、と言うカティとしてはやや不本意な戦いであったかもしれない。
ただ、デカルトに対する接し方、スメラギに対する「希望」と言うフレーズなど、随所に戦術予報士としてではなく、一人の上官としての人間味を劇場版では見せてくれたキャラクターなのかもしれない。
結局、OOでは戦術予報士と言う存在を作りながら、それが結局のところ部隊長や艦長とどういった点で違うのか、と言う部分が明示し切れなかった。個人的にはもっと、作戦参謀的な、部隊長や艦長は別にいて、彼らが戦術の組み立てを頼るような存在だと考えていたのだが、その辺りは特に2ndシーズンになって曖昧にぼやけてしまった部分だろう。
そこは残念だったが、結果的に戦術予報士と言う存在が、軍においては隊長や将軍と言う地位に居るのであれば、やっぱり戦術だけではだめなのだと思う。そこには、単に戦術理論に優れるだけではなく、例えば平時における部下の人心掌握術や、兵士たちの士気などにも携わらなくてはいけない。
スメラギもそうだったが、カティもまたそうした意味では立派な上官として活動しているところが、細かなディティールに見え隠れしていて良かった。
◇パトリック・コーラサワー
結婚したら不死身じゃなくなってしまった…と思いきや、そうでもなかったようである(笑
実は彼は、主人公属性を持つ。あるいは、典型的なバカ属性を持つ(笑 どっちかっていうと愛すべきバカなわけだけど、でも、そんな彼が居なかったらどうだろうか?
彼は報告書を読まない。軍人なのに私情一直線で、愛すべき人をトコトン愛している。本当は強いのだが、その上を行くパイロットが多過ぎて弱く見えてしまう残念なエースである。
でも、そんな彼だから私たちは愛おしく、そんな彼だからこそ私たちにとって必要不可欠なのだ。
報告書を読まない彼は、何も詳しいことを知らないから、知っている人(主にカティ)に聞く。彼が聞いてくれることで、彼と同じように専門的な世界設定を知らない私たちがそうした部分を知ることが出来る。説明描写はアニメーションの中では特に難しい行(くだり)の一つだが、そうした部分をパトリックがいるからこそ、スムーズに出来る。
彼は愛すべき人をトコトン愛している。世界の命運をかけた戦いでも、彼は愛すべきカティを愛し続けた。2ndシーズンでは、カティの為にその身を犠牲にしようとしたほどだ。トコトン愛に生きる彼は、こうした大義や命運を巡って戦うが為に、私たちからは遠く感じてしまう世界観やキャラクターを身近に感じさせてくれた。
彼は残念なエースである。でも、エースなのだ。お調子者だけど、エース。不死身だからね。そんな弱いけど、ちゃっかり生きている不死身のお調子者だからこそ、愛すべきキャラクター。
彼には死とかそうしたシリアスは似合わない。本来シリアスであるガンダムストーリーの中で、シリアスから最も遠い位置にいるからこそ、愛すべきキャラクター。
彼が居なかったら、この作品はもっと気難しく、もっと取っ付き難い作品だったに違いない。本当に、どこまでも愛すべきバカである。
NoTitle