劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer- 第一回
- ジャンル:[アニメ・コミック]
- テーマ:[機動戦士ガンダムOO]
感想・講評 第一回『劇場版OOの初見』
最速からはやや遅れましたが、ようやく観に行ってきました。アホかっ!と思われるかもしれませんが、10時30分と13時の上映を連続でwww 一回目は純粋に映画として、ガンダム好きとして楽しんで、二回目は考察目当てですね。
でも、パンフ買い忘れました(汗 なんか水島監督と黒田脚本家の対談があるとかで、やっぱ欲しいです。考察する上で必須じゃん(爆 そんなわけで近々(余裕があれば明日にでも)もう一回見るついでに(ぇ
考察は例のごとく長くなるので何回かに分割して極力簡潔に行こうと思ってます。物語、キャラクター、MS、細々したところ、全体像など語るところはたくさんありそうですしね。なので基本的に本文はこうした軽い会話を、追記で考察をします。追記はネタバレ解禁ですので、ネタバレ厳禁の方は絶対に避け、見る場合も自己責任でお願いします。
講評は、私の主観の考察なので、例のごとく肯定的な講評です。
初見で思ったのは『アルジェントソーマ』と言う作品をもう一度観ている気分だった。まぁ、それについても後日語りたいと思います。
面白かったのは、アバンの劇中劇ですかね。真実を知るからこそ違っている部分が解っていて笑えてしまう部分ですが、あれはあれでセカンドステージを纏めたと言われればそう。
何より面白かったのはオマージュ部分か。資源衛星はどう見てもアクシズだし、ガンダムのコックピットはガンダムWに出てくるガンダム(ウイングゼロとエピオン以外)のものそのものでした。アクシズは解ると思うのですが、ここは意図的なオマージュなのか偶然なのかは、監督に伺ってみたいですね。もしかしたら、その辺もパンフに載ってるのかな?
では、さっそく考察です。
◇劇場版OOの初見◇
※本当に初見で思ったことで、劇場版パンフも一切読んでいない状態でのものです。読んだらまたちょっと考え方が変わるかもしれませんが、一応素直な想いです。
類似した考察をした方がいらっしゃいますので、この考察で少しでも興味を持たれた方は一度拝見してみるのも良いと思います⇒おはぎさん『失われた何か』【ガンダムサバーニャ】劇場版 機動戦士ガンダム00 2回目行って来ました!!【感想】
初見と二度目を観終えて、この作品が何を言いたいのだろうかと考えた時、それはエンディングクレジット終了後のイオリアとE・A・レイとの会話に凝縮されているような気がした。
『先入観や固定観念に囚われて、物事の本質が見られなくなる』
イオリアとE・A・レイは人類が持つ知性に対して述べたことだったが、これがたぶん『劇場版OO』の根幹にあるテーマの一つのような気がした。
幾つか感想のBlogや各所の映画批評も目にしたが、多く観られたモノの一つが「これを『ガンダム』と呼んでいいのか?」と言うモノだった。
その感想には頷ける。
そこでむしろ自分が疑問に思ったのは、「じゃあ『ガンダム』ってなんだ?」ってこと。
『戦争や戦闘を通した人間同士の複雑な葛藤や心理描写』か、『MS同士の戦闘シーン』、あるいは『戦争に対する解決の形』か。
どれもたぶん正しいと思う。どれも、これまでの『ガンダム』を形取ってきた大きな“幹”である。だが、ガンダム誕生からずっとこのテーマで描かれてきた。さまざまな状況、世界観、設定、主人公、思想を基にしてその基盤の上ではどんな葛藤や複雑な人間同士のやり取りがあるのか、戦闘シーンが描けるのか、そしてどんなエンディングの形を迎えるのか。
だが、そろそろそれにも限界を迎えてきている気がする。
そして、そうした「『ガンダム』って何?」と考えた時に思い浮かぶもの、それこそが先入観であり、偏見であり、固定観念だ。
『ガンダム』は、私たちが考える通りであってくれるならば、それをより“ガンダムらしい”と感じるだろう。でも『ガンダム』がそうでなくてはいけない、なんてことはどこにも決まっていない。
そうした偏見や固定観念を違うベクトルで破ったガンダムの一つに『Gガンダム』がある。ガンダム同士が国の威信をかけて総合格闘技のように戦い合い、スーパーロボットさながらに必殺技を繰り出すのだ。
この作品を『ガンダム』として認めるか否かは、当時から、そしておそらく今も意見が分かれる部分だろう。
だが、放映当初に比べれば『Gガンダム』を『ガンダム』と認める人も増えてきていると思う。
あるいは、現在はオーソドックスになりつつある主役ガンダム複数制だが、これは平成に入ってから作られたアナザーガンダムシリーズで確立されたものだ。宇宙世紀ではガンダムは1機と言うケースがほとんどだった(まったくなかったわけではない)。『ZZ』のように旧作ガンダムが出てきたり、『V』のように前期主人公機が量産機であるなど例外はあるものの、こと映像化した作品に対しては、これは一緒の固定観念であり先入観だった。
それを打ち破ったのが『G』であり『W』であり『X』であり、そして『SEED』『OO』である。
この複数ガンダム制を今、特に平成になってからガンダムを観た人にとって違和感を感じることは少ないが、放映当初は人気の高かった『W』含め「ガンダムを大盤振る舞いし過ぎだ!」と賛否両論だったものだ。宇宙世紀を強く推奨する方々の間での反発も含めて。
でも、それが今ではオーソドックスな形になっている。
『劇場版OO』は、そんな作品たちと同じで既存の『ガンダム』という枠を、固定観念を、先入観を打ち壊そうとしているのではないだろうか、と私は考える。
作品の根幹として描けるものに限界が来たのなら、新しい限界を作ればいい。人気としても賞品としてもガンダム単機ではキツク複数制にしたり、新しい限界を求めてガンダムに総合格闘技をさせてみたり、そうした試行錯誤によって世界観と限界が広がっていくのが、『ガンダム』ではないだろうか?
『劇場版OO』が壊そうとしてくれた固定観念と先入観は、『敵は人間であり、そしてMSでなければいけない』と言うものだ。
自分で書いていてあれだが、確かに敵が人間である必要性もMSである必要性もない。でも、『ガンダム』として大切な部分も忘れていない。
それは、『対立する両者がどう解り合うか』と言う根幹部分の一つだ。
かつて、ニュータイプとオールドタイプ、地球人とコロニー人、国と国、コーディネイターとナチュラルなど対立の図式を生み出して、その双方が理解出来る道を模索したのが『ガンダム』であり、その双方が『劇場版OO』では人間と変異性金属生命体(異星人)だったというだけだ。
『人は変わらなければならないのだから』
イオリアが1stシーズンでTRANS-AMを託した際の言葉である。それに限らず、『OO』と言う作品ではたびたび“変革””革新””変わる”と言う言葉を多用されてきた。
それは、あの世界のキャラクターたちに向けられた言葉であるが、もしかしたらそれらの言葉は本当は私たち視聴者に投げかけられていた言葉ではないか、とも思えた。
変わらなくてはいけないのだろう、
私たち視聴者も、ガンダムファンも
既存の先入観や固定観念に縛られず、
飽和状態の“ガンダム”と言う作品の
新境地を開拓するためにも、
そしてこれから先も“ガンダム”と言う作品を
より一層、魅力的にして行く為にも。
ガンダムに限らず、昨今この業界はDVDやグッズ収入で元が取れるか取れないかで放映期間や放映そのものが判断されているケースが多い。
裏を返せば、それは監督・スタッフが「面白くなるかも!」「新境地を拓けるかも」と言う作品ではなく「受ける」作品を作らなければならない傾向が強いことでもある。
ガンダムもその例外に漏れない(有名なところだと『Destiny』か)
でも、それだけでは“ガンダム”と言う作品に限界が訪れるのではないだろうか。アイディアだって無尽蔵なわけではない。その中でテーマをしっかり通しながら、50話近い話数を話を作ることの大変さ。“ガンダム”と言う冠の重さと期待値の高さ。
そうしたものにこれから先も“ガンダム”と言う作品が、私たちファンに応えていく為には、新境地開拓が必要不可欠だった、と捉えたように思える。
その新境地の一つが、『劇場版OO』なのだろう。
興味深かったです
劇場版00について、楽しく、そして非常に興味深く読ませていただきました☆
私は00以外のガンダム作品を全く観たことがないので上手く言葉にすることはできないんですが、
月詠様の記事を読んで、
「絶対他のガンダムも観てみよう!!」と思うことができました、ありがとうございます(*>ω<*)
乱文失礼いたしましたっ‼!