『Another』考察
この記事は、本編本筋の「死者について」の考察以外の考察です。別段、この内容を考察しなくても問題ないだろうけれど……と言う内容を取り扱って考察しています。
まぁ、気になった方は追記からどうぞ。「死者について」の考察はしていないのでたぶんネタバレ等はないと思いますが、原作未読なのでその辺りの匙加減が筆者は分からないので、その辺をご了承いただいた上で閲覧はお願い致します。
1)“現象”とはどのようなものか?
今現在も恒一や鳴たちを死の恐怖に陥れている“現象”。人によっては“災厄”とも呼んでいるこの現象は果たしてどのような経緯によって生まれてしまったものなのかを整理し、解明していきたい。
まずは二十六年前の三年三組。そこに属していた人気者・夜見山ミサキが、家族と共に焼死してしまったことに端を発する。その後、人気者だったが故にクラスメイトたちは夜見山ミサキがまるで生きている者であるかのように一年間振る舞った。確かにそこだけ見れば、命を落とした級友をいつまでも大切に想い続ける中学生と言うのは美徳に見える。だからこそ、当時担任だった千曳や校長もそれに一定の配慮をし、黙認ないし卒業式にはミサキの分の席を設けるなどその美徳を美談にする手助けをしたわけだ。
故に、千曳は当時を振り返って「誰にも悪気はなかったんだ」と口にしたのだろう。確かに、その話だけを耳にして「死者を生きているように扱うなんて最低だ」と言う人は少ないだろう。多くの人がその話は美談であると判断するに違いない。
しかし、そこで何らかの問題があった。夜見山という土地柄が霊的に特殊な土地だったのか、はたまたあの学校の作りか何かに仕掛けがあったのか、それとも当時の三組のクラスメイトの誰かが“呪(まじな)い”的な何かを実行してしまったのか。
そこは判別が出来ないものの、何らかの原因によって夜見山北中学の三年三番目のクラスは、“死”に近いクラスとなってしまった。それはそうだろう、本来死んだはずのミサキを生きている者として扱ったのであれば、明確な線引きがあるはずの生死の境が曖昧になってしまったと言うことなのだから。
その曖昧さゆえに、三組(三年三番目のクラス)は死者を招きやすくなってしまった。そして、始まったのが“現象”である。
1-A)最初の“死者”は夜見山ミサキ?
実際に“現象”が始まったのは、二十五年前だと思われる(そうでなければ、二十六年前の夜見山ミサキの出来事と“現象”を繋げて考えられはしなかっただろう。つまり二十五年前は“現象”が“ある”年だったと言う可能性が極めて高い)。
そして、現在“現象”にはこんなルールがある。
「“現象”で紛れ込む“死者”は過去の“現象”の被害者(死亡者)である」
これは劇中でも実例を交えて解説されたものだ(96年度の“死者”だった「浅倉麻美」は93年度の生徒で同年に“現象”によって死亡している)。
このルールが最初から適用されるのであれば、二十五年前に三年三組に紛れ込んだ“死者”の可能性があるのは四人。
・夜見山ミサキ
・夜見山ミサキの弟
・夜見山ミサキの父
・夜見山ミサキの母
この四人である。ただし、この二十五年間で“死者”が担任や副担任として紛れ込んだケースは言及されていないので、おそらく皆無だったのだろう(その点で本記事で行っている私の推理が正しければ、恒一や鳴たちの年度はイレギュラー過ぎたと言うことだが)。それを考えれば、下段二人の候補者は除外される。
あとは夜見山ミサキかその弟が、二十五年前の“死者”である可能性が高いと言うことだ。二十五年前は現在のように過去の蓄積がないため、上記ルールが初期段階から適用されるのであれば“死者”としてクラスに紛れ込めるのはこの二人に限定される。
まぁ、妥当に考えれば夜見山ミサキ当人が二年連続で三組にいたと考える方が自然かもしれない。実際彼は昨年度(二十六年前)に生きている者として扱われたことで、彼自身も半ばその気になっていたに違いない(だからこそ彼は卒業式の集合写真に姿を見せて“しまった”のだ)。
1-B)範囲はなぜ夜見山市内にいる三組構成員と二親等以内の血族?
これは簡単だろう。
最初の“死者”となった夜見山ミサキ。彼が死んだ時の状況は、両親と弟を含めた一家焼死。ミサキから見て両親は一親等で弟は二親等。つまり、弟が二親等だったから三組構成員の当事者とその二親等以内の血族が“現象”の範囲となっていると考えられる。
夜見山市内に限定されるのは、彼の氏名が夜見山だから……と言う安易なものではないだろう。ただし、全く無関係とも思っていない。地名と同じ苗字を持っていると言うことは、それだけ「夜見山家」が現在の夜見山一帯での有力な地主であった可能性も考えられる。
もちろん、苗字だけでは分からない部分が多過ぎてこの部分は断言出来ない。苗字のルーツは地名であることも少なくは無いが、その地名は現在使われていない地名であるケースも多いため、「夜見山家」の“夜見山”が彼らが住み、今恒一たちが住む夜見山市であるという確証がない。
また仮にそうだったとしても「昔から住む=地主、有力者」とは限らないわけだ。
とはいえ、上記のように可能性としては十分考えられる。かつて夜見山を納めていた一家の末裔が、もし無残な焼死と言う形で命を散らせてしまったら、その辺り一帯が何らかの特別な状態に陥ってしまう可能性も否めない(そもそも焼死したそもそもの火災の出火原因がアニメ版では不明。原作では語られているのかな? どちらにせよアニメ版基準で考えれば原因不明なわけだから、当然そこには放火の可能性もある……)。
この辺りはもともと推理するようなところではなくて、基準・ルール的な部分なので言及しても答えは出てこないっぽい雰囲気はあるがw それでもまぁそこそこの考察と結果は出たかなと思う。
1-C)どうして死人が出る?
現状では、「“死者”が紛れ込むため本来あるクラスの座席数が足りなくなるため、誰か一人がはじき出されるから」と考えられているように思う。だからこそ、十年前に「一人紛れ込むことに対して、一人をクラスから省くことで対処とした」わけだから。
ただし、その論理で言えば一人死ねばそれで終わりであるが、実際には何人もの人間が犠牲になっている(同様にミサキ含めた夜見山一家の犠牲者の数は四人。その人数を超えているため、家族と同じ数が死亡しているとも考えにくい)。また毎月一人は必ず犠牲者が出ることの説明にはなっていない。
だが、1-B)で挙げたように“現象”の起こっている範囲には、夜見山一家が焼死した状況(三組構成員のミサキとその二親等以内の親族が焼死)との合致点があり、やはりこの点にも多かれ少なかれミサキもしくは夜見山家が何らかの形で関与して今の状態となっていると考える方が自然だろう。
とはいえ、それだけではまるで分からないので、ここは“現象”が一定のルールによって成り立ち、実行されているのだとすれば共通項と差異を見比べていけば、そのヒントが分かるのではないかと考案してみる。
まず死者の総数。これは年度によって異なっているため、上記のように夜見山家が焼死した事件での死亡者数とは無関係だと考えて良いだろう。
次に死亡に至る経緯。これは皆さんご存知のように事故死から病死、果ては他殺に自殺まで幅広いためここから何かを推理することは難しい。
こうやって削っていくと、共通項はただ一つ。「“現象”が始まったら毎月死人が出ること」だけだ。しかも、ひと月に出る死亡者数の数も、今年は四月は一人、五月・六月は二人、七月は最低二人で、八月になると四人以上とバラけている。
そうなると、考察する上ではこの「毎月死人が出る」と言う部分から何かを探るしかない。
例えばこの「毎月」という概念。これは「一分=六十秒」「一年=三百六十五日」と言うような固定数値ではない。四月は三十日だが、五月は三十一日まである。二月に至っては二十八日、閏年でも二十九日と日数に最大で二日前後の開きがある。
つまり、これがミソなんじゃないかと思ってる。要は“現象”は、この「月(一カ月)」という単位において認識していると言うこと。たとえその一か月が二十八日しかなかろうが、三十一日まであろうが関係なく「ひと月」という単位で動いていると言うことだ。
そう考えると、「毎月死人が出る」と言うのは、ひと月ごとにリセットが働いているのではないかとも考えられるわけだ。ノルマと一緒。「今月は~~」というノルマを達成すれば、来月には当然そのノルマはリセットされてゼロからスタートする。それと同じことが“現象”のどこかの部分で機能しているのではないかと言うこと。
ただし、この「ノルマ」が何なのかは分からない。一度始まれば最低一人、ひと月に死んでいるのならその「一人」という人数が紛れ込んでいる“死者”の数に合致していると考えられるが、それなら逆にひと月に五人も死んでいたらそれはルールとしての規則性に欠くわけだ。
(現に今年の八月は、勅使河原が誰かを誤って殺してしまっていたなら最低でも五人は死んでることになる)
例えば、四月は一人、五月は二人、六月は三人と増えるのかもしれないが、今年がすでにそうではないのでこれも却下。
と言うわけで、ここまで話を盛り上げておいて実は結論がサッパリ分かっていなかったりする(苦笑 いや、もうこれしょうがなくね?www
ただ、この“現象”の最大の謎であるこの部分を解くカギはあとは「学校」と言う部分なのかなとも直感的に感じている。それはもう一つの固定されている共通のルーティンワーク――つまり、“死者”は卒業式と同時に死に還ると言う点だ。
“現象”が四月から始まろうが、年度の後半から始まろうが、そもそも始まらなかったとしてもその卒業式において全ての記録と記憶は元に戻り、そして四月から新しい“死者”が招かれてしまう(可能性がある)。ここもまた絶対に崩れない法則性のある部分だが……。
1-D)血族はダメ? 親族ならOK?
これは直近の十話を視聴していて思ったことだ。
つまり、鳴と未咲の関係性と“現象”の有効範囲について考えた時に疑問に思った。と言っても、小見出しで書いたように実は観返していく中で、答えの一つは得ていて第六話で千曳は「二親等以内の“血族”」と口にしたので、親族ではなく血族が対象だと言うことなのだろう(この点は次回の記事に反映させて纏め情報は修正しておく)。
「血族だの親族だの細かいことはどうでもよくね?」と思う方もいるだろう。ぶっちゃけどうでもいい(マテ どうでも良い考察だから、本記事じゃなくてこうやってわざわざ別記事にしているのでwww
さて、細かい点だが当然血族と親族では意味合いが異なる。例えば鳴の場合、
・“現象”の範囲が“親族”の場合
⇒霧果(OUT)、未咲(SAFE)、未咲の両親(SAFE)
・“現象”の範囲が“血族”の場合
⇒霧果(SAFE)、未咲(OUT)、未咲の両親(OUT)
となる(この場合「OUT=範囲内=危険」「SAFE=範囲外=安全」)と言うことで)。
親族の場合、鳴にとって霧果は母親になるため一親等となる(特別養子の場合は特に)。そして未咲と未咲の両親は二親等外となるため“現象”の範囲外となる。
血族の場合、鳴にとって霧果は養母なので一親等外となり範囲外となる。そして未咲と未咲の両親は実親であり実姉妹となるため二親等以内であり、範囲内となる。
現段階で千曳の発言と、未咲が実際に犠牲になっている点からやはり“現象”の範囲は“親族”ではなく“血族”であると考えられる。つまり、戸籍上の関係性ではなく、あくまで血縁上の関係性が優先されると言うこと。
まぁさして重要項目ではないのだが、この辺りがハッキリしておくのは良いかなと思った。例えば霧果は今年の“現象”においては、実は安全圏にいる人物と言うことなる(上記のとおり、鳴とは血縁上二親等以内の繋がりはないため。霧果から見て鳴は本来、姉妹の子供=姪にあたり、三親等となる。これは恒一と怜子の関係と同じである)。彼女が三組の“現象”についてどこまで知っているのかは定かではないが、平然としていたのはこういう事情もあるのだろう。
逆に言うと一見するとまるで無関係そうな藤岡家の両親が死亡する可能性もある(これは夜見山市内に未咲の両親がいた場合だが)。
この辺の複雑さは、さすがにこれ以上は無いと思ってるw 例えばだけど、とあるクラスメイトAがいたとしよう。Aの両親は実は再婚でそのクラスメイトは父親の連れ子で、父が再婚した相手(母親)にも連れ子がいた場合、“現象”の対象はAと父親だけで、一見すると二親等以内の母親とその連れ子は範囲外で安全と言うことになるわけだ。
これが戸籍上“親族”であると言うのなら、その辺を無視して一切合財親等計算し二親等以内なら危険と言うことになるが、そうではないと言うこと。
1-E)“現象”はどういうものか?
結論から言えば、超常現象。それ以上は何とも言えない、と言うことになる。
ただ強引にこじつけるなら、おそらくは感覚系を麻痺させることを得意とした“現象”である、と言うことだろうか。今回、松永の回想シーンで彼は“死者”と思われる人物を殺害したが、その死体は残らなかった。死体どころか死体がまき散らしたはずの血痕すら残っていなかった。
つまり、物理的に本来その“死者”は存在していないと言うことだ。
なのに、クラスメイト一人一人に見えていて触れることが出来る。と言うことは、感覚系の器官が誤った情報を受信し、脳が誤った情報を誤ったまま処理していると言うこと。
脳は視覚や聴覚で得た情報を電気信号として送信し脳がそれを受信し再構築することでそれを認識し判別するわけだから、脳や感覚系の器官に対して“死者”が直接そうした脳内や神経系で用いられる電気信号を操作出来るのであれば、本来居ないはずの自分を居るように見せかけることも不可能ではないのではないか、ということ。
まぁ、あくまで理論上の話だ。おまけに“現象”はその瞬間の感覚だけでなく記憶まで操作しているわけだから、そうした理論上の話のさらに上の特別な理論があるのだと考えられるのだろう。
まぁ、たぶんこの考察は本筋では何の役にも立たないだろうけど(苦笑
風の噂では、本作の原作者がTwitter上で『Another』の続編を描くらしい。そうなると、本作は続編が出来る終わり方をするんだろうなーと思ってしまう(つまり、今年の“現象”は止めるが根本的に“現象”を解決はしないのだろう)。まぁ、ここから“現象”を根本的に解決は出来ないだろう、時間的にwww
考察とも呼ばない。